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第6話 花魁・雪乃の最後の夜

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-27 12:17:24

翌朝。

花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。

遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。

「黒羽さまがいらしたって」

「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」

「でも鷹司さまが許さないって……」

雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。

いつもと同じ化粧。

いつもと同じ髪。

いつもと同じ、花霞楼の雪乃。

けれど。

今日が最後になるかもしれない。

鏡の中の自分を見つめる。

「……最後、か」

昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。

花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。

男を楽しませる術。

酒を注ぐ手つき。

客が欲しい言葉を見抜く目。

ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。

けれど今は。

不思議と、少しだけ楽しみだった。

小雪がいる。

そして。

「……朔夜」

名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。

「何考えてるのよ、あたし」

雪乃は自分の頬を軽く叩いた。

今日は恋に浮かれている場合ではない。

まず、自分の人生を取り戻す。

そのための日だ。

大広間には、すでに三人の男がいた。

花霞楼の主人。

鷹司蓮。

そして黒羽朔夜。

女将が雪乃を迎える。

「来たね」

「はい」

雪乃は座敷へ入り、静かに座った。

仕事中の一人称に戻す。

「お待たせいたしました」

鷹司が薄く笑った。

「相変わらず、こういう席では完璧だな」

「お褒めいただき、ありがとう存じます」

「褒めてはいない」

「まあ。残念でございます」

鷹司の眉が動く。

朔夜は何も言わない。

ただ雪乃を見る。

それだけで、なぜか落ち着いた。

主人が咳払いをした。

「では、雪乃の身請けについてですが……」

鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。

「話すことなどない」

昨日、雪乃が見せられたものだ。

新たな借金。

保証人、鷹司蓮。

「この女には、まだこれだけの負債がある」

朔夜は証文を一瞥した。

「偽物だ」

座敷が静まり返った。

鷹司の目が細くなる。

「何?」

朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。

「三年前からの入金記録だ」

雪乃が目を見開く。

「それ……」

「小雪の家から回収した」

帳簿を開く。

雪乃が花霞楼から送り続けていた金。

鷹司側へ渡った金。

借金として差し引かれた額。

すべて記録されている。

朔夜が淡々と言った。

「元金も利息も、とっくに払い終わっている」

鷹司は鼻で笑った。

「だから何だ。この町の証文には、俺の印がある」

「昨日の日付でな」

鷹司の表情が止まる。

朔夜はもう一枚の紙を出した。

「この印を押した時刻、おまえは小雪の家にはいなかった」

「……それが?」

「証人がいる」

襖が開いた。

入ってきたのは、小雪だった。

「小雪!?」

雪乃が立ち上がりかける。

「どうしてここに?」

「黒羽さまに連れてきてもらったの」

小雪は雪乃の隣へ座った。

鷹司を見る。

少し緊張している。

それでも、目は逸らさなかった。

「鷹司さま」

「何だ」

「昨日、お姉ちゃんの借金を増やしましたよね」

「知らんな」

「でも、昨日あたしに言いました」

鷹司の眉が動く。

小雪は続けた。

「『姉が逃げるなら、借金を作り直せばいい』って」

「…………」

雪乃が鷹司を見る。

「本当に言ったの?」

鷹司は黙っている。

小雪が、少し困ったように首を傾げた。

「鷹司さま、嘘つくんですか?」

「小娘」

「はい」

「黙れ」

「分かりました」

小雪は `( '꒳' )すんっ` と黙った。

鷹司が苛立ったように扇を閉じる。

「……なぜ貴様は毎回、本当に黙る」

「黙れって言われたので」

「なら、もう喋れ」

「はい」

雪乃は思わず口元を押さえた。

こんな場面なのに。

小雪は小雪だった。

朔夜が話を戻す。

「蓮」

「馴れ馴れしく呼ぶな」

「証文を破棄しろ」

「断る」

「そうか」

朔夜は立ち上がった。

その瞬間。

座敷の空気が変わった。

風など吹いていない。

それなのに、朔夜の白銀の髪が僅かに揺れる。

背後に。

一つ。

二つ。

三つ。

白い影が浮かび上がる。

女将が息を呑んだ。

主人は顔を青くした。

やがて九本。

巨大な白い尾が、朔夜の背後でゆっくりと揺れた。

鷹司だけは逃げなかった。

「……正体を隠す気もなくなったか」

「必要がない」

朔夜の金色の瞳が光る。

「証文を破棄しろ」

「妖の力で俺を脅すつもりか」

「違う」

朔夜は淡々としていた。

「これは警告だ」

「同じだろう」

「違う」

朔夜は帳簿を畳に置いた。

「おまえが不正を認めないなら、この帳簿を上へ持っていく」

鷹司の笑みが消えた。

「……上?」

「おまえより高いところにも、人間はいるだろう」

雪乃は朔夜を見る。

妖の力で片づけるのではない。

証拠を揃えたうえで、鷹司自身の立場を追い詰めている。

鷹司はしばらく黙っていた。

やがて、小さく笑った。

「狐のくせに、人間のやり方を覚えたな」

「千年も見ていれば覚える」

「気に食わん」

「知っている」

二人の視線がぶつかる。

先に目を逸らしたのは、鷹司だった。

「……好きにしろ」

「鷹司さま?」

雪乃が聞き返す。

鷹司は証文を手に取る。

そして。

びり、と破いた。

一度。

二度。

細かく。

紙片が畳へ落ちる。

「これで満足か」

雪乃は言葉を失った。

終わった。

あれほど自分を縛っていたものが。

紙切れになっている。

「……あたし」

仕事中の言葉遣いを忘れていた。

けれど、もう直す気になれなかった。

「あたし、もう借金ないの?」

花霞楼の主人が帳簿を確認する。

「ああ」

女将も頷いた。

「ないよ、雪乃」

雪乃の胸が震えた。

「じゃあ……」

女将が微笑んだ。

「おまえは自由だ」

自由。

昨日、朔夜から聞いた言葉。

今度は、本当に。

自分のものになった。

雪乃は俯いた。

涙が一滴、畳へ落ちる。

「……やだ」

小雪が姉を見る。

「お姉ちゃん?」

「こんなところで泣くつもりなかったのに」

雪乃は笑った。

「花魁なのに。格好悪い」

女将が首を横に振る。

「今日くらい、いいじゃないか」

雪乃は女将を見る。

この場所には、嫌な思い出だけがあるわけではない。

厳しいことも言われた。

泣いた夜もある。

でも、世話になった人たちもいる。

一緒に笑った女たちもいる。

「女将さん」

「なんだい」

「今まで、ありがとうございました」

雪乃は深く頭を下げた。

女将はしばらく何も言わなかった。

やがて。

「……幸せになりな」

その一言で。

雪乃はまた泣いた。

鷹司は立ち上がった。

「では、俺は帰る」

小雪が声をかける。

「鷹司さま」

鷹司が足を止めた。

「何だ」

「証文、破ってくれてありがとうございました」

「……俺が作ったものだ」

「でも、最後は自分で破いたでしょう?」

「黒羽に脅されたからな」

小雪は少し考える。

「でも、破らないこともできたと思います」

鷹司は小雪を見る。

大きな瞳。

まっすぐな顔。

責めているわけでもない。

褒めようとしているわけでもない。

ただ思ったことを言っている。

「だから、ありがとうございます」

鷹司は黙った。

「……おまえは」

「はい?」

「本当に、変な女だな」

「よく言われますか?」

「おまえにしか言っていない」

「そうなんですね」

「…………」

また `( '꒳' )すんっ`。

鷹司は扇で口元を隠した。

「……帰る」

「お気をつけて」

「言われなくても分かっている」

蓮は振り返らずに座敷を出た。

ただ。

廊下へ出たあと。

自分の耳が熱いことに気づいて。

ひどく不機嫌になった。

夕方。

雪乃は自室で荷物をまとめていた。

驚くほど少なかった。

着物。

簪。

小さな鏡。

小雪から昔もらった手紙。

それだけ。

「……何年もいたのに」

自分のものなど、ほとんどなかったのだ。

襖が開く。

「支度は終わったか」

朔夜だった。

「女の部屋に勝手に入らないで」

「開いていた」

「声をかけなさいよ」

「かけた」

「聞こえなかった」

「なら仕方ない」

「そういう問題じゃない!」

朔夜は部屋を見回した。

「荷物はそれだけか」

「悪い?」

「いや」

朔夜が風呂敷を持ち上げる。

「持つ」

「自分で持てるわよ」

「知っている」

「じゃあ返して」

「嫌だ」

雪乃が目を瞬く。

「……あなた、『嫌だ』とか言うのね」

「言う」

「初めて聞いた」

「そうか」

そのまま荷物を持って歩き出す。

雪乃は後ろを追った。

「待ってよ」

廊下を進みながら、雪乃は聞いた。

「朔夜」

「なんだ」

「身請けのお金」

「必要なくなった」

「じゃなくて」

雪乃は足を止める。

朔夜も振り返った。

「あなた、最初から借金を払うんじゃなくて、証拠を集めてたの?」

「ああ」

「どうして?」

「おまえを買いたくなかった」

雪乃は黙った。

朔夜は続ける。

「金を払えば簡単だった」

「……そうね」

「だが、それではおまえは、鷹司から俺へ持ち主が変わっただけだと思うだろう」

雪乃の胸が鳴った。

まさに。

そう思っていた。

「あたしのこと、よく分かってるのね」

「昔から見ている」

「それ、やっぱりちょっと怖い」

「そうか」

「でも……」

雪乃は小さく笑う。

「今日は、ありがとう」

朔夜は何も言わなかった。

「何よ。こういうときくらい、どういたしましてって言えないの?」

「必要ない」

「どうして?」

「恩返しだからな」

雪乃の笑みが、少しだけ消えた。

また。

恩返し。

「……そう」

雪乃は歩き出す。

なぜか胸がちくりとした。

朔夜が好きだと言ったこと。

あれは嘘ではない。

分かっている。

それなのに、恩返しと言われると。

少しだけ寂しい。

花霞楼の玄関へ着く。

外には、小雪が待っていた。

「お姉ちゃん!」

「小雪!」

雪乃の顔が一気に明るくなる。

朔夜が横を見る。

「……俺のときと随分違うな」

「当然でしょう。小雪よ?」

「そうか」

小雪が笑いながら姉に抱きつく。

「今日から一緒に住める?」

雪乃は、一瞬答えに詰まった。

小雪のところへ行く。

それが当然だと思っていた。

なのに。

視線が、自然と朔夜へ向く。

朔夜は何も言わない。

選べ、と言っている。

小雪も気づいたらしい。

「お姉ちゃん」

「何?」

「あたしのことは気にしなくていいよ」

「でも」

「黒羽さまのところ、行きたいんでしょう?」

「なっ……!」

雪乃の顔が赤くなる。

「違っ、そういうわけじゃ!」

小雪はにこにこしている。

「じゃあ、一緒に帰る?」

「…………」

雪乃は朔夜を見る。

「ねえ」

「なんだ」

「あなたの家って、部屋ある?」

「ある」

「一人分?」

「何人でも住める」

「……そう」

「来るか?」

朔夜は、それだけ聞いた。

嫁になれとも。

俺を選べとも言わない。

雪乃は少し考えた。

そして。

「今夜だけ」

朔夜の目を見る。

「あたし、あなたのところへ行ってみる」

「ああ」

「勘違いしないでよ。結婚するって意味じゃないから」

「分かっている」

「あなたのことを知りたいだけ」

「ああ」

「それから百夜の呪いのことも」

「話す」

雪乃は小雪を見る。

「……いい?」

小雪は嬉しそうに頷いた。

「いってらっしゃい、お姉ちゃん」

「明日絶対会いに来るから!」

「うん」

「知らない人についていっちゃ駄目よ!」

「黒羽さまはいいの?」

「この人は……」

雪乃は朔夜を見る。

少しだけ笑った。

「昔から知ってたみたいだから」

朔夜が、ほんの僅かに目を細める。

「行くぞ」

「はいはい」

「返事は一度でいい」

「細かい!」

雪乃は花霞楼を振り返った。

赤い灯。

何年も過ごした場所。

花魁・雪乃として生きた場所。

深く頭を下げる。

そして。

前を向いた。

朔夜が歩いている。

その隣へ並ぶ。

初めてだった。

誰かに連れていかれるのではない。

自分で。

行きたい場所を選んだ。

「朔夜」

「なんだ」

「あたし、今日から何者なんだろう」

「雪乃だろう」

「……それだけ?」

「ああ」

朔夜は前を向いたまま答える。

「それで十分だ」

雪乃は立ち止まりそうになった。

けれど。

すぐに追いつく。

「……ほんと、ずるい男」

「何がだ」

「何でもない」

夕暮れの道。

花魁ではない雪乃が。

初めて、一人の女として歩き始めた。

その夜。

朔夜の屋敷。

雪乃は与えられた部屋で、一人、鏡の前に座っていた。

豪華な簪を一本ずつ外す。

紅を拭う。

鏡の中から。

花霞楼の雪乃が消えていく。

残ったのは。

二十二歳の、ただの女。

「あたしって……こんな顔だったんだ」

そのとき。

戸の向こうから、朔夜の声がした。

「雪乃」

「何?」

「入っていいか」

雪乃は鏡を見る。

化粧もしていない。

髪も下ろしている。

客の前には絶対に出なかった姿。

一瞬迷った。

それでも。

「……いいよ」

戸が開いた。

朔夜が入ってくる。

そして雪乃を見る。

黙ったまま。

「……何よ」

「いや」

「化粧してないから変?」

「逆だ」

朔夜は淡々と言った。

「そのほうが好きだ」

雪乃の顔が熱くなる。

「あなたさ……」

「なんだ」

「そういうこと、普通の顔で言うのやめてくれない?」

「なぜ」

「こっちが困るの!」

朔夜は少し考えた。

「無理だな」

「なんでよ!」

「本当のことだからだ」

雪乃は何も言えなくなった。

朔夜が一歩近づく。

雪乃の心臓が速くなる。

今まで。

数え切れないほど男と近い距離で過ごしてきた。

それなのに。

こんなふうに胸が鳴ったことは、一度もなかった。

朔夜が雪乃の頬へ手を伸ばす。

しかし。

触れる直前で止めた。

「……触れていいか」

雪乃は、その手を見る。

今までの男は。

金を払ったから。

花魁だから。

触れて当然だと思っていた。

この男だけは。

聞いた。

雪乃はゆっくり顔を上げる。

金色の瞳を見る。

「……うん」

朔夜の指が。

そっと雪乃の頬へ触れた。

その瞬間。

雪乃は初めて知った。

人に触れられることが。

こんなにも怖くて。

こんなにも嬉しいことを。

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