LOGIN翌朝。
花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。 遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。 「黒羽さまがいらしたって」 「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」 「でも鷹司さまが許さないって……」 雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。 いつもと同じ化粧。 いつもと同じ髪。 いつもと同じ、花霞楼の雪乃。 けれど。 今日が最後になるかもしれない。 鏡の中の自分を見つめる。 「……最後、か」 昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。 花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。 男を楽しませる術。 酒を注ぐ手つき。 客が欲しい言葉を見抜く目。 ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。 けれど今は。 不思議と、少しだけ楽しみだった。 小雪がいる。 そして。 「……朔夜」 名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。 「何考えてるのよ、あたし」 雪乃は自分の頬を軽く叩いた。 今日は恋に浮かれている場合ではない。 まず、自分の人生を取り戻す。 そのための日だ。 大広間には、すでに三人の男がいた。 花霞楼の主人。 鷹司蓮。 そして黒羽朔夜。 女将が雪乃を迎える。 「来たね」 「はい」 雪乃は座敷へ入り、静かに座った。 仕事中の一人称に戻す。 「お待たせいたしました」 鷹司が薄く笑った。 「相変わらず、こういう席では完璧だな」 「お褒めいただき、ありがとう存じます」 「褒めてはいない」 「まあ。残念でございます」 鷹司の眉が動く。 朔夜は何も言わない。 ただ雪乃を見る。 それだけで、なぜか落ち着いた。 主人が咳払いをした。 「では、雪乃の身請けについてですが……」 鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。 「話すことなどない」 昨日、雪乃が見せられたものだ。 新たな借金。 保証人、鷹司蓮。 「この女には、まだこれだけの負債がある」 朔夜は証文を一瞥した。 「偽物だ」 座敷が静まり返った。 鷹司の目が細くなる。 「何?」 朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。 「三年前からの入金記録だ」 雪乃が目を見開く。 「それ……」 「小雪の家から回収した」 帳簿を開く。 雪乃が花霞楼から送り続けていた金。 鷹司側へ渡った金。 借金として差し引かれた額。 すべて記録されている。 朔夜が淡々と言った。 「元金も利息も、とっくに払い終わっている」 鷹司は鼻で笑った。 「だから何だ。この町の証文には、俺の印がある」 「昨日の日付でな」 鷹司の表情が止まる。 朔夜はもう一枚の紙を出した。 「この印を押した時刻、おまえは小雪の家にはいなかった」 「……それが?」 「証人がいる」 襖が開いた。 入ってきたのは、小雪だった。 「小雪!?」 雪乃が立ち上がりかける。 「どうしてここに?」 「黒羽さまに連れてきてもらったの」 小雪は雪乃の隣へ座った。 鷹司を見る。 少し緊張している。 それでも、目は逸らさなかった。 「鷹司さま」 「何だ」 「昨日、お姉ちゃんの借金を増やしましたよね」 「知らんな」 「でも、昨日あたしに言いました」 鷹司の眉が動く。 小雪は続けた。 「『姉が逃げるなら、借金を作り直せばいい』って」 「…………」 雪乃が鷹司を見る。 「本当に言ったの?」 鷹司は黙っている。 小雪が、少し困ったように首を傾げた。 「鷹司さま、嘘つくんですか?」 「小娘」 「はい」 「黙れ」 「分かりました」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と黙った。 鷹司が苛立ったように扇を閉じる。 「……なぜ貴様は毎回、本当に黙る」 「黙れって言われたので」 「なら、もう喋れ」 「はい」 雪乃は思わず口元を押さえた。 こんな場面なのに。 小雪は小雪だった。 朔夜が話を戻す。 「蓮」 「馴れ馴れしく呼ぶな」 「証文を破棄しろ」 「断る」 「そうか」 朔夜は立ち上がった。 その瞬間。 座敷の空気が変わった。 風など吹いていない。 それなのに、朔夜の白銀の髪が僅かに揺れる。 背後に。 一つ。 二つ。 三つ。 白い影が浮かび上がる。 女将が息を呑んだ。 主人は顔を青くした。 やがて九本。 巨大な白い尾が、朔夜の背後でゆっくりと揺れた。 鷹司だけは逃げなかった。 「……正体を隠す気もなくなったか」 「必要がない」 朔夜の金色の瞳が光る。 「証文を破棄しろ」 「妖の力で俺を脅すつもりか」 「違う」 朔夜は淡々としていた。 「これは警告だ」 「同じだろう」 「違う」 朔夜は帳簿を畳に置いた。 「おまえが不正を認めないなら、この帳簿を上へ持っていく」 鷹司の笑みが消えた。 「……上?」 「おまえより高いところにも、人間はいるだろう」 雪乃は朔夜を見る。 妖の力で片づけるのではない。 証拠を揃えたうえで、鷹司自身の立場を追い詰めている。 鷹司はしばらく黙っていた。 やがて、小さく笑った。 「狐のくせに、人間のやり方を覚えたな」 「千年も見ていれば覚える」 「気に食わん」 「知っている」 二人の視線がぶつかる。 先に目を逸らしたのは、鷹司だった。 「……好きにしろ」 「鷹司さま?」 雪乃が聞き返す。 鷹司は証文を手に取る。 そして。 びり、と破いた。 一度。 二度。 細かく。 紙片が畳へ落ちる。 「これで満足か」 雪乃は言葉を失った。 終わった。 あれほど自分を縛っていたものが。 紙切れになっている。 「……あたし」 仕事中の言葉遣いを忘れていた。 けれど、もう直す気になれなかった。 「あたし、もう借金ないの?」 花霞楼の主人が帳簿を確認する。 「ああ」 女将も頷いた。 「ないよ、雪乃」 雪乃の胸が震えた。 「じゃあ……」 女将が微笑んだ。 「おまえは自由だ」 自由。 昨日、朔夜から聞いた言葉。 今度は、本当に。 自分のものになった。 雪乃は俯いた。 涙が一滴、畳へ落ちる。 「……やだ」 小雪が姉を見る。 「お姉ちゃん?」 「こんなところで泣くつもりなかったのに」 雪乃は笑った。 「花魁なのに。格好悪い」 女将が首を横に振る。 「今日くらい、いいじゃないか」 雪乃は女将を見る。 この場所には、嫌な思い出だけがあるわけではない。 厳しいことも言われた。 泣いた夜もある。 でも、世話になった人たちもいる。 一緒に笑った女たちもいる。 「女将さん」 「なんだい」 「今まで、ありがとうございました」 雪乃は深く頭を下げた。 女将はしばらく何も言わなかった。 やがて。 「……幸せになりな」 その一言で。 雪乃はまた泣いた。 鷹司は立ち上がった。 「では、俺は帰る」 小雪が声をかける。 「鷹司さま」 鷹司が足を止めた。 「何だ」 「証文、破ってくれてありがとうございました」 「……俺が作ったものだ」 「でも、最後は自分で破いたでしょう?」 「黒羽に脅されたからな」 小雪は少し考える。 「でも、破らないこともできたと思います」 鷹司は小雪を見る。 大きな瞳。 まっすぐな顔。 責めているわけでもない。 褒めようとしているわけでもない。 ただ思ったことを言っている。 「だから、ありがとうございます」 鷹司は黙った。 「……おまえは」 「はい?」 「本当に、変な女だな」 「よく言われますか?」 「おまえにしか言っていない」 「そうなんですね」 「…………」 また `( '꒳' )すんっ`。 鷹司は扇で口元を隠した。 「……帰る」 「お気をつけて」 「言われなくても分かっている」 蓮は振り返らずに座敷を出た。 ただ。 廊下へ出たあと。 自分の耳が熱いことに気づいて。 ひどく不機嫌になった。 夕方。 雪乃は自室で荷物をまとめていた。 驚くほど少なかった。 着物。 簪。 小さな鏡。 小雪から昔もらった手紙。 それだけ。 「……何年もいたのに」 自分のものなど、ほとんどなかったのだ。 襖が開く。 「支度は終わったか」 朔夜だった。 「女の部屋に勝手に入らないで」 「開いていた」 「声をかけなさいよ」 「かけた」 「聞こえなかった」 「なら仕方ない」 「そういう問題じゃない!」 朔夜は部屋を見回した。 「荷物はそれだけか」 「悪い?」 「いや」 朔夜が風呂敷を持ち上げる。 「持つ」 「自分で持てるわよ」 「知っている」 「じゃあ返して」 「嫌だ」 雪乃が目を瞬く。 「……あなた、『嫌だ』とか言うのね」 「言う」 「初めて聞いた」 「そうか」 そのまま荷物を持って歩き出す。 雪乃は後ろを追った。 「待ってよ」 廊下を進みながら、雪乃は聞いた。 「朔夜」 「なんだ」 「身請けのお金」 「必要なくなった」 「じゃなくて」 雪乃は足を止める。 朔夜も振り返った。 「あなた、最初から借金を払うんじゃなくて、証拠を集めてたの?」 「ああ」 「どうして?」 「おまえを買いたくなかった」 雪乃は黙った。 朔夜は続ける。 「金を払えば簡単だった」 「……そうね」 「だが、それではおまえは、鷹司から俺へ持ち主が変わっただけだと思うだろう」 雪乃の胸が鳴った。 まさに。 そう思っていた。 「あたしのこと、よく分かってるのね」 「昔から見ている」 「それ、やっぱりちょっと怖い」 「そうか」 「でも……」 雪乃は小さく笑う。 「今日は、ありがとう」 朔夜は何も言わなかった。 「何よ。こういうときくらい、どういたしましてって言えないの?」 「必要ない」 「どうして?」 「恩返しだからな」 雪乃の笑みが、少しだけ消えた。 また。 恩返し。 「……そう」 雪乃は歩き出す。 なぜか胸がちくりとした。 朔夜が好きだと言ったこと。 あれは嘘ではない。 分かっている。 それなのに、恩返しと言われると。 少しだけ寂しい。 花霞楼の玄関へ着く。 外には、小雪が待っていた。 「お姉ちゃん!」 「小雪!」 雪乃の顔が一気に明るくなる。 朔夜が横を見る。 「……俺のときと随分違うな」 「当然でしょう。小雪よ?」 「そうか」 小雪が笑いながら姉に抱きつく。 「今日から一緒に住める?」 雪乃は、一瞬答えに詰まった。 小雪のところへ行く。 それが当然だと思っていた。 なのに。 視線が、自然と朔夜へ向く。 朔夜は何も言わない。 選べ、と言っている。 小雪も気づいたらしい。 「お姉ちゃん」 「何?」 「あたしのことは気にしなくていいよ」 「でも」 「黒羽さまのところ、行きたいんでしょう?」 「なっ……!」 雪乃の顔が赤くなる。 「違っ、そういうわけじゃ!」 小雪はにこにこしている。 「じゃあ、一緒に帰る?」 「…………」 雪乃は朔夜を見る。 「ねえ」 「なんだ」 「あなたの家って、部屋ある?」 「ある」 「一人分?」 「何人でも住める」 「……そう」 「来るか?」 朔夜は、それだけ聞いた。 嫁になれとも。 俺を選べとも言わない。 雪乃は少し考えた。 そして。 「今夜だけ」 朔夜の目を見る。 「あたし、あなたのところへ行ってみる」 「ああ」 「勘違いしないでよ。結婚するって意味じゃないから」 「分かっている」 「あなたのことを知りたいだけ」 「ああ」 「それから百夜の呪いのことも」 「話す」 雪乃は小雪を見る。 「……いい?」 小雪は嬉しそうに頷いた。 「いってらっしゃい、お姉ちゃん」 「明日絶対会いに来るから!」 「うん」 「知らない人についていっちゃ駄目よ!」 「黒羽さまはいいの?」 「この人は……」 雪乃は朔夜を見る。 少しだけ笑った。 「昔から知ってたみたいだから」 朔夜が、ほんの僅かに目を細める。 「行くぞ」 「はいはい」 「返事は一度でいい」 「細かい!」 雪乃は花霞楼を振り返った。 赤い灯。 何年も過ごした場所。 花魁・雪乃として生きた場所。 深く頭を下げる。 そして。 前を向いた。 朔夜が歩いている。 その隣へ並ぶ。 初めてだった。 誰かに連れていかれるのではない。 自分で。 行きたい場所を選んだ。 「朔夜」 「なんだ」 「あたし、今日から何者なんだろう」 「雪乃だろう」 「……それだけ?」 「ああ」 朔夜は前を向いたまま答える。 「それで十分だ」 雪乃は立ち止まりそうになった。 けれど。 すぐに追いつく。 「……ほんと、ずるい男」 「何がだ」 「何でもない」 夕暮れの道。 花魁ではない雪乃が。 初めて、一人の女として歩き始めた。 その夜。 朔夜の屋敷。 雪乃は与えられた部屋で、一人、鏡の前に座っていた。 豪華な簪を一本ずつ外す。 紅を拭う。 鏡の中から。 花霞楼の雪乃が消えていく。 残ったのは。 二十二歳の、ただの女。 「あたしって……こんな顔だったんだ」 そのとき。 戸の向こうから、朔夜の声がした。 「雪乃」 「何?」 「入っていいか」 雪乃は鏡を見る。 化粧もしていない。 髪も下ろしている。 客の前には絶対に出なかった姿。 一瞬迷った。 それでも。 「……いいよ」 戸が開いた。 朔夜が入ってくる。 そして雪乃を見る。 黙ったまま。 「……何よ」 「いや」 「化粧してないから変?」 「逆だ」 朔夜は淡々と言った。 「そのほうが好きだ」 雪乃の顔が熱くなる。 「あなたさ……」 「なんだ」 「そういうこと、普通の顔で言うのやめてくれない?」 「なぜ」 「こっちが困るの!」 朔夜は少し考えた。 「無理だな」 「なんでよ!」 「本当のことだからだ」 雪乃は何も言えなくなった。 朔夜が一歩近づく。 雪乃の心臓が速くなる。 今まで。 数え切れないほど男と近い距離で過ごしてきた。 それなのに。 こんなふうに胸が鳴ったことは、一度もなかった。 朔夜が雪乃の頬へ手を伸ばす。 しかし。 触れる直前で止めた。 「……触れていいか」 雪乃は、その手を見る。 今までの男は。 金を払ったから。 花魁だから。 触れて当然だと思っていた。 この男だけは。 聞いた。 雪乃はゆっくり顔を上げる。 金色の瞳を見る。 「……うん」 朔夜の指が。 そっと雪乃の頬へ触れた。 その瞬間。 雪乃は初めて知った。 人に触れられることが。 こんなにも怖くて。 こんなにも嬉しいことを。百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。ただ、それだけだった。なのに。雪乃は動けなかった。男に触れられることなど、珍しくもない。花霞楼では、それが仕事だった。手を握られる。肩を抱かれる。甘い言葉を囁かれる。相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。けれど。今は違う。「……雪乃」朔夜が呼ぶ。低い声。それだけで、胸の奥が熱くなる。「何?」「嫌なら言え」雪乃は目を瞬いた。「……何が?」「触れられることだ」雪乃は少し笑った。「今さら?」「ああ」「花魁だった女に聞くこと?」朔夜の表情は変わらない。「花魁だったことは関係ない」「…………」「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。朔夜の手が離れようとする。反射的に。雪乃はその手首を掴んだ。「……待って」朔夜が止まる。雪乃自身が、一番驚いていた。今まで。客の手を止めたいと思ったことはあっても。離れていく手を追ったことなどなかった。「どうした」「……分からない」「何が」「あたし、自分でも分からないの」雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。「こういうとき、いつもなら分かるのよ」相手が欲しい言葉。欲しい表情。欲しい仕草。全部。「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」「何もしなくていい」雪乃が顔を上げる。「え?」「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」朔夜は淡々と言った。「笑いたくなければ笑わなくていい」「…………」「触れたくなければ、触れなくていい」雪乃の指が、朔夜の袖を握る。「じゃあ……」「なんだ」「触れたいときは?」朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。「触れればいい」「……簡単に言うのね」「難しいのか」「難しいわよ」雪乃は小さく笑った。「好きな男になんて、触れたことないもの」初めて口にした。好きな男。朔夜は驚きもしない。赤面もしない。ただ。「そうか」と言った。雪乃は眉を寄せる。「もうちょっと何かないの?」「何が欲しい」「知らない!」「困った女だな」「あなたにだけは言われたくない!」雪乃が睨む。朔夜はほんの少しだけ目を細めた。笑った。たぶん。それを見たら、余計に悔
翌朝。花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。「黒羽さまがいらしたって」「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」「でも鷹司さまが許さないって……」雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。いつもと同じ化粧。いつもと同じ髪。いつもと同じ、花霞楼の雪乃。けれど。今日が最後になるかもしれない。鏡の中の自分を見つめる。「……最後、か」昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。男を楽しませる術。酒を注ぐ手つき。客が欲しい言葉を見抜く目。ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。けれど今は。不思議と、少しだけ楽しみだった。小雪がいる。そして。「……朔夜」名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。「何考えてるのよ、あたし」雪乃は自分の頬を軽く叩いた。今日は恋に浮かれている場合ではない。まず、自分の人生を取り戻す。そのための日だ。大広間には、すでに三人の男がいた。花霞楼の主人。鷹司蓮。そして黒羽朔夜。女将が雪乃を迎える。「来たね」「はい」雪乃は座敷へ入り、静かに座った。仕事中の一人称に戻す。「お待たせいたしました」鷹司が薄く笑った。「相変わらず、こういう席では完璧だな」「お褒めいただき、ありがとう存じます」「褒めてはいない」「まあ。残念でございます」鷹司の眉が動く。朔夜は何も言わない。ただ雪乃を見る。それだけで、なぜか落ち着いた。主人が咳払いをした。「では、雪乃の身請けについてですが……」鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。「話すことなどない」昨日、雪乃が見せられたものだ。新たな借金。保証人、鷹司蓮。「この女には、まだこれだけの負債がある」朔夜は証文を一瞥した。「偽物だ」座敷が静まり返った。鷹司の目が細くなる。「何?」朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。「三年前からの入金記録だ」雪乃が目を見開く。「それ……」「小雪の家から回収した」帳簿を開く。雪乃が花霞楼から送り続けていた金。鷹司側へ渡った金。借金として差し引かれた額。すべて記録されている。朔夜が淡々と言った。「元金も利息も、とっくに払い終わっている」鷹司は鼻で笑った。「だか
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃